その少し前の日本では16世紀室町時代(1338-1573年)後期から安土桃山時代(1574-1602年)にかけて、銀閣寺に代表される東山文化が栄えていきます。わび・さびを重視する文化の中で銀装飾の人気が高まり、富裕層の間で装身具や食器(*銀は漆とともに装飾に使われ、欧州の銀のみで作られた食器とは異なります)、鎧や兜まで様々な銀で装飾した製品が愛用されました。今も日本文化を代表する、※蒔絵も平安時代後期に並び2回目の絶頂期を向かえました。
日本の銀の需要が高まると共に、各地で銀山が開発されましたが当時の自然銀の回収では産出が追いつかず主に朝鮮や中国からの輸入に頼る状態でした。ところが1533年博多の商人が朝鮮より招いた技術者、桂寿、宗丹が銀の精錬技術の一つ、‘※灰吹法’を伝え、銀の産出量が一気に急増していくのです。
後に日本との貿易を望むポルトガル人の商材として、また戦国大名の軍資金として銀が注目をあび※アマルガム法を導入し飛躍的に生産量が増えたボリビアとならんで世界における銀の一大産地となっていきます。
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※蒔絵・・漆を塗った器物の表面にさらに漆で模様を書き、乾かないうちに銀(金)の粉を蒔きつける装飾法。 |
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灰吹の図
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※灰吹法・・銀を含む鉱石を砕いて溶かし、鉛を加えるとその親和性からくっつき銀と鉛の合金が残る(素吹)。これを‘貴鉛’とよび、灰の上に置き炭の粉を振りかけ熱を加えると鉛が酸化鉛となって溶け出し灰に吸収される。残ったものが、灰吹銀と呼ばれた精錬された銀となる。 |
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※アマルガム法・・銀を含む鉱石を粉砕し溶かして水銀を加えると銀が水銀に溶け、アマルガムと呼ばれる合金を作る。不純物をろ過した後加熱すると水銀のみ蒸発し、精錬された銀となる。鉱石の表面においては微細な銀まで効率良く回収できる。当時の蒸留器の質は悪く、蒸発した水銀を奴隷(インディオ)が吸い続け、水銀中毒から死亡に至り人口が激減した。
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※青化法・・砕いた鉱石にシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)の水溶液を加え銀を溶かして抽出する方法。アマルガム法は砕いた鉱石の表面の銀しか回収できないが、青化法では内部の銀まで回収できるので取り残しが無い。現在使われている主流な精錬法だが、シアンの毒性の強さから代替法が研究されている。
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17世紀 |
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17世紀前半には日本産の銀は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めるようになります。当時、フランシスコ・ザビエルが本国に送った手紙にカスチリア(現スペイン)人は日本を、銀諸島とよんでいたとの記録が残っている程の産銀国でした。貴金属は捨てられることなく再生されることが多いので、今も世界の各地で当時の日本産の銀が多く残っていることでしょう。
1603年、徳川家康が天下を統一した後、江戸幕府は幣制統一政策として、金貨立てを推奨しましたが、西日本では銀が遣い続けられました。これは、当時西日本に銀山が多く分布しており、中国等の貿易の標準決済方法が銀立てが多く幕府の方針が根付くことはありませんでした。当時の状況をよく表した言葉が、‘東国の金遣い、西国の銀遣い’です。当時、幕府が銀貨の鋳造施設をおいた地域を銀座と呼び、東京の銀座はその名残としてそのまま地名になっています。
一方、17世紀に英国人により事実上征服された北米大陸(現アメリカ)では現ニューヨーク周辺のインディアン(ネイティブアメリカン)が銀細工に興味を持ちます。白人から手に入れた銀貨をコンチョ(ボタン状の銀飾り)に加工して使い始めました。
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18世紀 |
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英国において、18世紀初頭から約20年間シルバーの本位を92.5%から、95.84%に変更し、これを‘ブリタニア・スタンダード’と呼びました。ところが、柔らかすぎて実用に耐えず元の‘スターリング・スタンダード’に戻します。
1712年にロンドンの造幣局長ニュートンが金銀比貨を1:15.21と正式に制定します。
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19世紀 |
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19世紀のアメリカでは有名なティファニー(TIFFANY
& Co.)が1837年に創業されます。当初は現在のイメージではなくファンシー雑貨店でした。後に宝石を扱うようになり、1851年に銀細工師ジョン・ムーアを招いたころからシルバーメーカーとして一躍有名になります。またこの頃南西部のインディアン、ナバホ族がメキシコ人銀細工師を経由してスペインの加工技術を習得します。1870年代までにはズニ族にも伝わりインディアンジュエリーの元になります。またこの世紀は米国において多くの銀山が発見された世紀でもあります。
わが国においては、1853年アメリカ軍人‘ペリー’、1856年初代総領事‘ハリス’の来航をきっかけに江戸時代から続いた鎖国政策が崩壊します。当時世界の銀と金のレートが15:1であったにもかかわらず、日本では独自に5:1に設定していた為、海外の貿易商人に大量の金が交換され持ち出されるという‘金銀比価問題’が発生しました。
特筆すべきは、1890年に現在も一般的に使われている、銀の精錬法、※青化法が確立され鉱石に含まれる銀をほぼ全て取り出すことができる様になります。これにより、最も効率的な採掘がもたらされ生産効率が増大するとともに、金銀比価が1:30〜60前後で推移していきます。
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20-21世紀 |
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20世紀初頭アメリカにおいて、ネバダ、コロラド、ユタで相次いで優秀な鉱山が発見され、主要な銀産出国の仲間入りを果たします。1945年第二次世界大戦が終結し、我が国も戦後の復興期を終え生活にも少しずつ余裕がでてきます。ところが銀文化は一部富裕層でしか普及していなかった為、一般大衆における銀文化はありませんでした。商人も廉価な銀を貴金属としては扱わず専らアクセサリー用の素材となります。さらに、銀は世界中の鉱山から新たに採集される銀以外に、二次供給(再生銀)のシステムが確立し、益々その価格が安くなっていきます。
アメリカにおいては、1988年にクロムハーツ(CHROME
HEARTS)が設立され、1992年にはCFDA賞(アメリカファッションデザイナー協会アクセサリー部門最優秀デザイン賞)を受賞し一躍有名になります。これをきっかけに、ファッション業界において軽視されていたシルバージュエリーが見直され一大ブームとなります。
一方日本でも、1990年頃からこれら欧米文化の影響を受け銀を貴金属として扱い始めるようになります。クロムハーツの成功は日本へも大きな影響を与え、国内、海外問わず数々のデザイナー、メーカーが紹介され現在に至っています。
尚、現在の世界の主要な銀の産出地は中南米(メキシコ、ペルー、ボリビア)、アメリカ、ロシアとなっています。新たな鉱山生産高は1991年からほぼ横ばいで、供給量に対する需要は年々高まっているのが現状です。いつまでも庶民のジュエリーであってほしい銀ですが、今後地銀の価格が上がる可能性は否定できません。
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まとめ |
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銀を主題に歴史をまとめてみましたが調べるうちに色々なことが解り、思いがけず長くなってしまいました。大古から世界各地で適度に産出された銀は共通の価値を生み、そのものが‘世界の貨幣’となり得たといえます。それは、国際貿易において有効な決済手段でありその拡大に大きな役割を担ってきた事が見て取れます。ちなみに、金も同じく大古から利用され共通の価値を持っていましたが、産出量の少なさから決済には向かなかったと想われます。 |